父と私の生誕地、貝島炭鉱跡地への旅 -炭鉱跡地ー

 私と父の生誕地は、福岡県鞍手郡宮田町です。今は合併して宮若市となっていますが、今の宮若市役所が以前は宮田町役場で、この近くに幼少期の実家がありました。

 この辺りは炭鉱の町で、この一帯は貝島炭鉱と呼ばれていました。父はここで生まれ育ちました。

 

 私は高校を卒業するまで、私の本籍は福岡県直方市だと思い込んでいました。当時、祖父母が直方市に住んでいたから勝手にそう思い込んでいただけなのですが、そのことを父は一度も否定しませんでした。私なりに貝島炭鉱について調べてみると、炭鉱労働者は周囲から差別的な偏見を受ける身分だったようで、父は私を気遣って出生地を直方市と思いこませたのかなと考えてしまいました。

 

 直方市の商店街を一通り見て回った後、タクシーに乗り込んで貝島炭鉱跡地がある宮田町へ向かいました。

 

 

 

 

 タクシーに乗るなり、旧宮田町に向かいました。最初に目を引いたのが福岡県立鞍手竜徳高校でした。父がここに住んでいた頃は農業高校だったようで、見違えるほど立派な学校に変わっていることが驚きだったようでした。

 

 

 この日、再び父を感動させたのがこの写真の酒屋さんでした。

 父が鉱員として仕事をしていた頃、よく通っていたようで、炭鉱が閉山になった今でもここで変わらず酒屋を営んでいることに感動していました。

 立ち寄って行こうと父を誘ったのですが、ここから見るだけでいいというので写真だけ撮らせていただきました。

 父の中では、炭鉱が閉山となり宮田町から多くの人がいなくなったので、町の経済は悪化し過疎化が進んでいると考えていたようでした。しかし、実際に行ってみると想像以上に人が住んでいて、町が再生されていることに驚いているようでした。

 この先にあった鉱員の住宅地も今では県営住宅街になっていて、廃墟となった町をイメージしていた父は町に活気があることが心底嬉しそうでした。

 タクシーの運転手に「この近くにトヨタの自動車工場ができたので、宮田町に活気があるのかな?」と聞いたところ、「この町にその恩恵はなかですね、工場で働く人は○○に住んどうとですよ」ということでした。

 

 鉱山跡地は埋め立てられ、ソーラーパネルが跡地一面に張り巡らされていました。

 鉱山跡地周辺にも舗装された道路が走っていて、鉱山があったことを微塵も感じさせないほど町が再生されている光景を父は嬉しそうに眺めていました。

 石炭列車が走っていた線路も今では道路に変わっていて、炭鉱跡地を思わせる光景はどこにも残っていませんでした。

 貝島炭鉱の特徴は、露天掘りと呼ばれる採掘法だったようで、ここが唯一炭鉱跡地を残す光景だったようです。その露天掘り跡地は大きな湖になっていました。

 露天掘り跡地周辺は、フェンスで囲まれていて近づくことは出来ませんでした。

 この光景を父は無言で静かに眺めていました。約40年ぶりに貝島炭鉱に帰ってきた父は何を思ったのか、最後まで聞くことは出来ませんでした。

 この写真は閉山前の貝島炭鉱の露天堀りを写した記録写真ですが、父の眼にはこの光景が思い出され、今の姿と見比べていたのかもしれません。

 貝島炭鉱跡地の観光が終わると再び小倉のホテルに戻り、帰り支度に入りました。

 

 宿泊したリーガロイヤルホテルは客室が広く、両親を満足させてくれました。

 この旅行の帰りは両親と私だけ、兄は早朝にさっさと帰ってしまう薄情者でした。兄には炭鉱の記憶が残っているだけに貝島炭鉱跡地巡りに同行してくれなかったのは残念でした。

 小倉から倉敷へ帰る途中、福山駅から新幹線こだまに乗り換えたのですが、終着駅の新倉敷駅までの区間に思いもよらぬ体験をしました。それは指定席の1車両(3号車)が私たちだけの貸し切り状態になっていたことです。

 

 年甲斐もなく父とはしゃいでしまう一幕でした。

 珍しい体験だったので、写真撮影をすると父も嬉しそうに顔を出して写真におさまっていました。

 

 今回の旅で私が生まれた町のことを初めて知ることが出来ました。

 

 思い入れがあるわけではないのですが、私が今の父と同じ歳になるころ、また来てみたいと思いました。

 

 貝島炭鉱跡地がどのように再生されているのか、興味が出てきたからです。

 

 貝島炭鉱があった頃、この町は大盛況で父の中では今でも最高の思い出がある時代だったようです。当時の父の仕事仲間は皆亡くなったようで、炭鉱による繁栄を知る人々がいなくなるというのも寂しい限りです。

 

 私の生れ故郷なので、この町に炭鉱の歴史を残してもらいたいと願うばかりです。

 

 

 最後になりましたが、3日間動物病院をお休みし、多くの患者さんにご迷惑をおかけしました。

 それなのに12日水曜の開院時には多くの患者さんが来院くださり、ありがとうございました。

 

 私の中では、お休みをいただいたおかげで父に親孝行が出来たと満足できた旅でした。

 

 

 

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コメント: 22
  • #1

    松尾俊和 (日曜日, 26 2月 2017 16:42)

    お父様との宮田旅行、いい思い出になられましたね。
     今は神奈川に住んでいますが、高校卒業まで宮田生まれの宮田育ちです。
    子供のころは、友人にも家族が炭鉱で働いている方が多く、私の父は商店街に努めていましたが炭鉱にお得意さんが多くおられました。
    「炭鉱労働者は周囲から差別的な偏見を受ける身分だった」という感覚は私にはありませんが、当時の活気は炭鉱に努めている方が支えてくれていたことは確かです。
     自分がその立場に居たわけではないので、本当のところはわかりませんけれど。
     毎回帰省するたびに商店街が寂しくなってゆくのを感じます、これは直方も同じですね。
     宮若市は、従業員こそ住んでいませんがトヨタ自動車九州の恩恵はあると思います、他に大きな産業がない中で、市立の中学や図書館は立派になっているのも、トヨタ自動車九州のからの税収あっての事だろうと思っていました。
     炭鉱の歴史、他の炭鉱が歴史遺産としてうまく観光資源としている例もある中、宮田町はうまくいきませんでしたね、わずかに石炭記念館に貴重な記録が残っています。(ご覧になりましたか?)
     また、「貝島炭礦鉄道 1961〜1964」に当時の貝島炭鉱の事がくわしく載っています。
    https://www.imon.co.jp/webshop/index.php?main_page=product_info&products_id=141422

    是非、また宮若をご訪問ください。

  • #2

    中島康子 (水曜日, 07 6月 2017 21:26)

    山本酒店、私の同級生のお店です。今は大阪で暮らしてますが とっても懐かしいです。

  • #3

    (日曜日, 01 4月 2018 16:25)

    僕も先日、宮田に帰って来ましたよ❗僕の父親は炭鉱夫でした。宮田、直方二つの町が寂れて凄く悲しくなりました、当時通ってた小学校、宮田中学校も閉校になっててただただ涙が溢れました

  • #4

    橋本文雄 (木曜日, 05 4月 2018 00:10)

    (水曜日、01 4月 018)
    宮田出身です。実家は農家で直接炭鉱にはかかわっていませんが小学校は貝島氏が建てた宮田北小学校また、今は無き宮田東中学校で炭鉱関係の子弟と共に勉学しました。高校も今は無き炭鉱技術者を育てた筑豊工業高校出身です。小学生の頃は家からボタ山にトロッコが上がりボアを捨てる景色や蒸気機関車が何十輛もつながった石炭を積んだ貨車をノロノロと引っ張る風景を記憶しています。中学生頃になると立坑からの採掘が露天掘りに変わり当時は東洋一の露天掘りとの事でした。筑豊のシンボル、ボタ山もいつの頃か無く成ってしまいましたがあの頃は活気があった。中学生の時は一クラス50人が11クラスもありました。運動会などどこの家族も総出で見に行き、すごい盛り上がりでした。その後、埼玉で娘達の運動会を見に行って余りの違いにがっかりしたものです。数年に一度、里帰りしますが炭鉱の面影はあまり見られなくなりましたがいまだ心落ち着く故郷です。

  • #5

    アミール動物病院 (月曜日, 16 4月 2018 22:01)

    橋本文雄様

    貴重なお話し、ありがとうございます。私には炭鉱の記憶がないので、興味深く読ませていただきました。ボタ山?ボア? 機会があれば、父に伺ってみます。 貴重な経験談、ありがとうございました。


    勉様
    コメント、ありがとうございました。

  • #6

    アミール動物病院 (月曜日, 16 4月 2018 22:09)

    松尾俊和様、中島康子様

    遅くなりましたが、コメントいただき、ありがとうございました。
    貴重な情報をいただき、閲覧させていただきました。

  • #7

    石原 一宏 (火曜日, 24 4月 2018 00:14)

    私は昭和30年鞍手郡宮田町三鉱南区の出生です。
    閉山前の昭和38年10月に広島県福山市に転居しました。
    小学校は菅牟田小学校で山の神、共同浴場、グランド、磯光駅のそばに池がありよく魚釣りに行ったことも
    54年たった今も私の故郷ですから大変懐かしくおもいだされます。
    私の祖父は小寺浅夫、平成16年8月、93才で他界しましたが貝島炭鉱ではサキヤマという貝島3人衆の一人だった事を自慢していました。
    アミールさんの写真を拝見しました。すっかり景色が変わっていますね。
    無理もないですね54年過ぎたのですからね。
    5月の連休に帰って来ます。
    貴重なブログありがとうございました。
    私の故郷であり人生の原点です 菅牟田は。

  • #8

    小田敏照 (金曜日, 16 11月 2018 23:00)

    私は昭和25年、宮田町新坑中区に生まれました。宮田東小学校を卒業し、東中学校1年の1学期に愛知県へ転居しました。山本酒店は懐かしい名前です。当時の若主人の顔を今でも覚えています。夏になると、「ぽんす」と呼んでいた瓶入りの甘い飲料を買っていたことを思い出します。共同浴場、盆踊りに使われていた広場、角の駄菓子屋、線路向こうのアーケードの商店街などを思い出します。坂根さん、野見山さん、黒川さん、小野さん、岩下くん、道下くん、野曽くん、野田くん。小倉くん等など、同級生の顔を懐かしく思い出します。屈託がない、あの頃には、もう戻れませんね。偶然にブログを拝見し、鬱々とした毎日のなかで久しぶりに心が休まる時間でした。

  • #9

    匿名さん (土曜日, 01 12月 2018 12:46)

    私が小学生の頃まで残っていた、たて鉱跡。
    炭鉱全盛時は東洋一と言われていたそうです。
    残しておけば今頃、世界遺産だったかもしれません。
    先見の目のない町長のお陰で、今は跡形もなく(笑)
    昔の面影をなくす事ばかり考えず、良い形で残していく事も考えて欲しいものです。

  • #10

    江間 玉子 (日曜日, 30 12月 2018 16:52)

    私は 昭和27年生まれです 今も たまに 子供の頃見た 景色が 夢の中で 蘇ります 舞い散る桜だったり 危ない 土手を 降りたり 小学校は 緑が丘小学校と 記憶しています 炭鉱仲間の 誘いで ブラジルへ 移住しないかと 言われ 一時 両親も 考えていた様ですが 母の体調が 悪く 船の長旅は 無理と判断し 後に 神奈川県横浜の自動車会社に就職しますが 免許取得の為 空いている 長屋の一部屋で 必死に 勉強していた父の記憶は 今も 忘れられません 炭鉱で 働く人達や 家族の利用する 丸い コンクリート製の浴槽でした いつか もう一度 炭鉱跡地に 行きたいとは おもうのですが 記憶の風景は 無いと 思うと 切なく 侘しいです。

  • #11

    今若 佳巳 (月曜日, 31 12月 2018 03:06)

    私は、昭和39年に菅牟田で生まれました。父や父の弟は炭鉱で働いていました。小学生4年までは、菅牟田小学校に通ってた記憶があります。ボタ山に登って遊んだ記憶や大きなお風呂のある公衆浴場など記憶があります。いとこたちとも近くに住んでいたため、よく遊んでいました。閉山後、父の弟家族は神奈川に父の妹家族は姫路に自分たちは山口県に住むことになりました。今でもあの頃の炭鉱町の良さを思い出しては寂しくなります。ご近所すべてが家族だったような町、菅牟田、今は面影はないのでしょうね

  • #12

    モーリー (水曜日, 30 1月 2019 14:03)

    私は、昭和54まで宮田町に住んでいました。親父は貝島製作所で働き、社宅住まいでした。小学校は親父の仕事の都合で、大之浦小学校、満之浦小学校、笠松小学校と転校し、中学は今も残っている宮田西中学に行きました。今も時々帰省しますが、宮田中学近くのラーメン屋の泰平楼は、昔と変わらずにおいしいいラーメンがいただけます。
    そうでした、力丸スケート場には冬場は何回も行きましたね。昭和45~昭和53くらいまででした。

  • #13

    悦子 (木曜日, 04 4月 2019 14:08)

    昭和25年に生まれ平和町に住んでいました。緑が丘小学校と宮田東中学校を卒業しました。今日思い出して見たら、宮田町はなくなっているのを知りビックリしました。歳をとって良く思い出して一度行ってみたいなあと思っていましたが、昔の面影は残ってないですね。中学校の恩師は、松原進先生でした。お元気にしておられるでしょうか?

  • #14

    むっちゃん (金曜日, 19 4月 2019 03:10)

    私は宮田町の天竺下に住んでいました。さん橋や炭鉱風呂、五抗配給所、西五抗マーケット、いろいろなところが思い出されます。菅牟田小学校を卒業し上野啓子先生や和田先生にお世話になりました。今も元気でおられますか?。そして大之浦中学校を卒業しました。牧山先生、安原先生,岩見先生等にお世話になりました。現在は兵庫県に住んでいますが、平成29年に親戚が天竺下に居ますので帰りました。50年ぶりに友に逢いました。非常に懐かしく宮田町(現宮若町)を案内してくれました。遠足に行った千石や脇野、千石は滝が無くなり変わりました。印象に残ったのは、ひなたの風景、昔のままです。感激です

  • #15

    けんじ (月曜日, 29 4月 2019 02:14)

    父は戦前、東京に住んでいましたが、戦争にかり出され、戦後は祖父のいる種子島に行き、そこで結婚しました。子供は男だけ三人で私は次男坊です。そして私だけがなぜか鞍手郡宮田町の生まれです。父はこの場所で炭鉱夫をしていたようで、その後、種子島に戻ったみたいです。私の記憶には宮田町の記憶は一切なく、いつか生誕地に行って見たいと思っていました。昭和28年2月なのでもう66歳になります。今度の連休後半にドライブを兼ねて栃木県から種子島に帰郷しますので、是非生誕地宮田町を訪れて見たいと思います。情報ありがとうございます。貝島炭坑ですね。

  • #16

    坂井信幸 (金曜日, 17 5月 2019 11:44)

    拝啓,穴井様。我が故郷筑豊親孝行の旅閲覧させて頂きました。旅道中想い出,皆さんのコメント内容いろんな地名,場所とても懐かしかったです。一緒に旅をした感じ致しました。次回の筑豊旧宮田町故郷旅行く予定有りましたらブログ掲載お願い致します。筑豊宮田駅切符届きましたか?ご両親見せてあげて下さい。私共からのプレゼントです。受け取って下さいませ。失礼致します。

  • #17

    アミール動物病院 (金曜日, 17 5月 2019 22:03)

    坂井信幸様

    お手紙、ありがとうございます。また、貴重な宮田駅入場券・切符を同封いただき、ご厚意に感謝いたします。多くの方々からも、貴重なコメントまでいただき、ありがたく思っております。入場券・切符は日焼けしないように二つ折りの小さな額縁フォトフレームに入れて父の部屋に置けるよう準備しています。父はしばらくの間、切符の感触を確認しながら、切符の現物に感動しているみたいでした。
    宮田への旅行後、父も母も思いのほか体調がよく、もう一度行く機会が出来ましたらご報告させていただきます。

  • #18

    キエフ (金曜日, 02 8月 2019 10:33)

    私は昭和28年生。宮田南小学校、宮田中学校でした。22歳で宮田を出て40年以上、現在は千葉県在住です。モーリーさんが書いていらっしゃる「泰平楼」にはよく行きました。昭和30年代の前期頃?、祖父が緑が丘小学校の用務員をやっていました。当時、西鉄バスで、「宮田役場前」から確か「五坑」だったか?で下車し、その後谷を降りて登るような感じで徒歩で緑が丘小学校の祖父のところに毎週末行ってました。その頃は、4畳半と6畳の用務員用の住宅が校内にありました。風呂はなくて祖父が銭湯?あるいは炭鉱の風呂?に連れて行ってくれていました(随分遠かったなあ)。確か中尾さんとか言った若い女性も用務員だか事務員だかでいらっしゃいまして、当時4、5歳の私を相手に仲良く可愛がっていただいていました。炭鉱の配給所もありましたよね。
    毎年のように帰省していますが、既に実家はなくホテル住まいであちらこちらの記憶のある場所などをレンタカーで回っています。が、思い出のある道路や建物などが大きく変貌していて、何やらよくわからないまま毎回時間切れで切り上げています。昭和30年代の地図と現在の地図の対比ができるようなものがあればいいのに・・・
    そうそう、国鉄宮田線で通学していましたが、今は駅舎もレールもありません。筑前宮田駅までの約2キロの道のり途上、長井鶴の六坑に行く鉄道の引き込み線がありましたね。筑前宮田駅から国鉄バス宮田バスセンターに行く経路上は、桐野の「新道通り」からた太蔵のあたりの商店街は結構な賑わいがありましたよね。
    今年も秋に帰る予定です。昔と今をどれだけ結び付けられるか、と思って帰っております。

  • #19

    平嶋春男 (日曜日, 11 8月 2019 00:36)

    25年生まれで大ノ浦小に4年までいて、その後東小、東中と生きてきました。10年前に同窓会があり喜んで出かけました。大ノ浦小には4年まででしたがぷっつりと転校したので浦小の友人にはまだ会えていません。八抗に住んでいて町内にはつる君梶田君、上の段には北条?さん、大坪くんなどがいました。今秋また行く予定なのでまた博物館に寄る予定でいます。近くの松尾には野見山くん、山崎くんなどが友人でした。

  • #20

    武川優子 (月曜日, 12 8月 2019 21:29)

    私は昭和38年の生まれで菅牟田小学校に三年生まで居ました。後に家族で愛知県に引っ越しました。炭鉱の長屋に住んでいました。両親は共同浴場で仕事をしていました。みなさんのコメントを読んでとても懐かしくて記憶がよみがえりました。小学校のトイレは今の時代では想像できないような形でした。例えば長い溝で、小はまたぐ形式。筆記用具は小学校の中にある購買所で鉛筆やノートではなく(茶色い紙)を購入してました。運動会は親たちが昔ながらの重箱のお弁当と小瓶の日本酒でお祭り騒ぎでした。私も炭鉱跡地に行ってみたいです&同窓会があればいいなぁと思いました。

  • #21

    キエフ (水曜日, 14 8月 2019 13:41)

    武川さん、そうです、学校の「購買部」と言っていた文房具などの販売所で、その茶色い紙を買ってました。確か南小学校では「西洋紙」と言ってまして、または「馬糞紙(バフンシ)」とも言ってましたよね。すごいですよね、「バフンシ」ですよ。私が小学校の中学年の頃までには農家は農作業用に馬を飼ってまして、未舗装が当たり前だった道路にはその馬糞があちこちころがっていました。おっとこんなことは貝島炭鉱とは直接の関係はありませんでした。申し訳ありませんでした。
    「むっちゃん」さんの書いていらっしゃる「五坑配給所」とそこから少しばかり坂道の湾曲した下り勾配になっていたところが今も何となく地形として残っていますね。そのあたりを天竺下と言っていたんですよね。右に曲がると「日陽(ひなた)」地区でしたよね。昭和30年前半頃は賑わっていました。
    今住んでいる千葉県は、それなりにいいところなのでしょうが、私にとっては何の愛着もないのです。かと言って宮田が素晴らしく良かったのか、と言えばそうでもないのです。宮田も炭鉱がさびれてゆくに従ってマチが荒んでゆきました。それがイヤでもあって出ていきました。でも私にとっては懐かしさがこみ上げてくるマチです。

  • #22

    日高 司 (木曜日, 29 8月 2019 13:09)

    私は昭和27年、両親の実家がある若宮町で生まれ、小さい時に宮田町の新坑東区に引っ越してきました。菅牟田小学校、宮田東中学校、筑豊工業高校と学び、昭和46年に高校卒業後、愛知県の自動車会社に就職しました。現在は愛知県の岡崎市に住んでいます。両親や、兄姉は昭和49年に、福岡市の隣の那珂川市に引っ越しました。
     旅行日記と皆さんのコメントを拝見し、普段は昔のことを話すことは無いのですが、懐かしさと仲間が増えたような気持ちになりコメントを書きました。(卒業後、同級生や友人とは一度も会っていません)
     一昨年に母の一周忌が若宮であり、帰りに菅牟田に立ち寄りました。ある程度は下調べをしていったのですが、想像を超えた変化で道路も全く変わっており、昔住んでいた家はさすがに無くなっているとは思っていましたが、残念ながらその場所に辿り着くことさえ出来ませんでした。
     しかし諦めが悪いので、昨年姉と二人で再度挑戦しました。姉の記憶は私よりかなり正確で、迷いながらもようやく辿り着くことができました。当然のことながらすっかり環境は変わっており、長屋跡に新しい家立ち並んでいましたが、驚いたことに、その中に昔住んでいた家が残っていました。ただ人は住んで居らず廃墟でしたが、当時もかなりボロボロの家が50年たった今も残っていることに、驚きと感動を覚えました。
     家は菅牟田小学校の近くで、変電所の脇道の坂を下ったすぐのところにあり、坂の途中に共同浴場があり、家の前には配給所がり、2軒長屋で隣には公園がありましたが、全て無くなっていました。ただ小学校は、校舎とグランドを結ぶ石段(ベンチ?)が残っておりすぐにわかりました。
     帰りに、石炭記念館に立ち寄りました。館長さんとも話が出来、航空写真や、小学校・中学校の卒業写真や、当時の炭鉱労働者の名簿等が残っていました。父の名前も確認できました。昔の記憶を辿ることが出来る、楽しい時間でした。また機会があれば、立ち寄りたいですね。

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