本日も昨夜と似たテーマで症例報告をさせていただきます。
今回の症例は9歳6カ月齢のアメリカン・コッカー・スパニエル(♀)です。
乳腺にくるみサイズのしこりがありました。乳腺腫瘍の疑いです。
オーナー様は手術を希望されたので、術前に健康状態のチェックを行いました。
それなりに高齢なので、すべてが万全の状態では無いですが、手術が出来ないと診断する所見は診られませんでした。
高齢で、しかも心臓が悪くなりやすい犬種ということもあり、万全の注意を払いながら麻酔をかけました。
麻酔の導入はスムーズで、心電図は安定しており、すばやく剃毛を済ませて、これから乳腺の切除手術を始めようという時に異変が生じました。
急に心拍数が低下し、心電図モニターを見ると、完全房室ブロックと呼ばれる不整脈が起きていました。
これは想定外の異変で、この時ばかりは随分あせりました。
急いで救急薬を投薬し、何とか回復できましたが、乳腺摘出手術の続行は無理と判断し、麻酔から覚ましました。
不整脈には命に関わる危険なものと心配の無いものとがあります。
今回の不整脈は命に関わる大変危険な不整脈です。
「完全房室ブロック」とは?
心臓は刺激伝導系と呼ばれる電気信号の回路があります。
大変微弱な電気が心房から心室に向かって流れています。
この電気信号を受けて、心房や心室は交互に拍動を行い、血液を全身に流しているのです。
完全房室ブロックとは、心房で発生した電気が心室に全く伝わらない状態です。
そのため、心室は心房から電気を受取れず拍動できなくなるので全身に血液を送ることが出来なくなります。つまり死亡してしまうのです。
ところが、心臓には防衛機能とも思える能力があり、心室は独自に電気を発生させ、弱いながら心拍を再開させますが、心拍数は大変少ないのです。
このような状態はいつ心臓が止まってもおかしくない状況で、命の危険がある不整脈なのです。
(ちなみに治療にはペースメーカーが必要になります)
ここで、昨夜の避妊手術の話に戻りますが、乳腺腫瘍を発症しても心臓疾患を併発してしまうと、手術をしたくても手術が出来ないこともあります。
しかも、アメリカン・コッカー・スパニエルは拡張型心筋症を発症しやすい犬種と言われています。
そのため、この犬種を飼う場合、幼いうちに避妊手術をして乳腺腫瘍を予防するほうがいいようにも思えますが、そうとも言えないので難しいところです。
余談ですが、麻酔薬には心臓への影響が少ないものもあります。
これを使えば、上記の症例の手術も可能かもしれないのですが、その薬、医薬品としては認可されていない試薬のため安易に使用することができません。しかも代謝が悪く、数十時間眠り続けるので更に使いづらい。
この子に残された選択は局所麻酔による手術なのかなあ。
完全には痛みを取れないから、大暴れしそうで悩みます。
2020年2月20日 追記
上記の当時(7年前)は、麻酔手技がまだまだ未熟だったと今になれば分かります。
今なら何の問題もなく手術が出来ていたと思うので、この子には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
先生方によって麻酔下で使用する薬剤は様々でしょうが、私はドパミンをよく使用します。
術中の血圧低下を抑える目的や利尿効果もあるので、術後の腎不全発症予防を兼ねて使用しています。
投与量をどの値で点滴するか、これも先生方によって違いがありますが、
私はドパミンを、7µg/kg/minで維持します。教科書的には多めだと思われますが、当院で使用する点滴器具だと経験的にこの量が血圧を安定しやすいと感じます。
(もちろん、麻酔下の状況によって投与量の調整は行います)
また、心疾患を患っている患者さんの手術を行うとき、毎日服用しているACE阻害薬やARBといったお薬は、麻酔のときに血圧が下がりやすいので術前の投薬を控えるべきとおっしゃる先生もいますが、当院では特に控えるよう指示することはありません。麻酔時はどの道、血圧は下がってしまうので。
術後は早期に投薬を再開するよう依頼しますが、食欲が下がって投薬できないケースもあります。このような場合に重宝するのがベトメディン注射薬です。昨年(令和元年)から使用しています。
これまで様々な手術を行い、時折、ハプニングが起こりますが、すべてが良き経験になりました。
開業以来、手術による死亡事故ゼロを続けていますが、それなのにいまだに手術に自信が持てません。外科には不向きの性格かもしれないといつも思います。
こんな性格なので、万が一に備えての緊急薬の準備は怠りません。すぐに投薬できるように注射器に薬剤を入れて備えています。そのため、手術後にはたくさんの注射器や薬剤が無駄になり廃棄されます。それでも準備しないと不安なので、お守りと思い、いまだに続けています。
高齢犬であろうが心臓が悪かろうが、日常生活をおくれている状況では麻酔は可能であると、麻酔科のご高名な先生がおっしゃっていました。
臆病な私ですが、どんな子でも手術を希望されれば年齢や持病を理由に断るわけにいきません。
引退するまで死亡事故ゼロを続けたいと願うばかりです。
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